江戸茶寮は茶器の絵付、お茶、お茶菓子が一緒に楽しめるワークショップです。お茶の祖、千利休について

江戸茶寮は茶器の絵付、お茶、お茶菓子が一緒に楽しめるワークショップです。お茶の祖、千利休について

千利休は1522年(大永2年)、現在の大阪堺にあたる和泉国で「魚屋(ととや)」と号する納屋衆(倉庫業)を営む商人「田中与兵衛(たなかよひょうえ)」の長男として誕生。

幼名は「田中与四郎(與四郎)」といい、これが千利休の本名です。
法名は「宗易(そうえき)」や「抛筌斎(ほうせんさい)」と号しました。

一般的に広く知られている”利休”という名は1585年(天正13年)、豊臣秀吉の禁中献茶に奉仕する際に町人の身分では参内できないため、正親町天皇(おぎまちてんのう)から与えられた居士号です。
このとき、千利休は64歳という晩年でした。

わび茶を完成させ、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の”天下三宗匠”と称された千利休。
そんな千利休が商人の教養として茶の湯を習い始めたのは17歳の頃で、初めての師は堺の茶匠「北向道陳(きたむきどうちん)」といわれています。師匠の元で修行を重ねた千利休は1544年(天文13年)、自身が23歳の時に初めての茶会を開き、無事に成功させます。

その後も茶禅一味の修行に励んだ千利休は茶人として知られるようになり、20代の時に堺の実質的支配者であった三好家一族の女性と結婚。子ども達をもうけて40代後半になるまで、三好家の御用商人として堺を離れずに家業に打ち込み、財を成しました。

1569年(永禄12年)以降、堺が天下人の織田信長の直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久と津田宗及とともに、信長に茶頭として召し抱えられるようになった千利休。

織田信長は臣下に茶の湯を奨励するなど、政治利用を推し進めていたこともあり、千利休は茶道における有力な協力者としてその地位を高めていき、信長から一目置かれる存在でした。

本能寺の変の後、次の天下人となった豊臣秀吉にも乞われて茶頭を務めるなど、さらに大きな存在感を示した千利休でしたが、秀吉との関係は長くは続きませんでした。
不和が生じたことから豊臣秀吉の逆鱗に触れてしまった千利休は切腹を命じられ、京都にある聚楽(じゅらく)屋敷内で、自害によってその生涯を終えました

江戸茶寮は茶器の絵付、お茶、お茶菓子が一緒に楽しめるワークショップです。

江戸茶寮では、陶芸体験、ろくろ体験、手捻り体験、絵付などから、誰でも簡単に楽しめる体験として絵付に特化したワークショップを提供しております。塗る、楽しむ、おしゃべる、2時間のコースで、感性、創造力、イマジネーションを自分の手で絵付した茶器でお茶とお茶菓子が楽しめるワークショップ、体感型アートアンドカフェです。東京観光、観光土産、日本のお土産、日本の体験ならば江戸茶寮をご利用くださいませ。

 

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